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「無伴奏」の意味に気づく

 
 中学3年だったと思います。レコード店が販促の手段として、

 「ご予約の方には SCHWANN のレコード・カタログ最新号を差し上げます。」

という「オマケ」の客寄せをやっていました。SCHWANN とは何ぞや? と思いな
がら、手元に届いた冊子は、欧文が並ぶだけの無味乾燥なもの。丹念に調べて輸
入レコードを定期的に購入するような資力もなく、とは言え、即座にゴミにする
わけにもいかず、しばらく本棚に収まっていました。
 日本には、『レコード藝術』(音楽之友社)という月刊誌があり、年1・2回レ
コードのカタログが付いてきましたから、それとの比較をするでもなく、何とな
く眺めることがあるくらいでした。

 ある時、前記事「データ管理前夜」でも触れた目録カードで、手持ちの音源デ
ータを記録することを試みたときのことでした。
 バッハの無伴奏ヴァイオリン・ソナタと、バルトークの無伴奏ヴァイオリン・
ソナタでは表記が違うことに気付きました。

・バッハ :Sonata for Violin Unaccompaniment
・バルトーク:Sonata for Violin Solo

 日本では同じ「無伴奏」と訳される元の語が、まったく違う記述になっている
わけです。

 思えば、当ブログのプロフィールに書いた、

・些細な「こだわり」から、「知るを楽しむ」こと

は、この15~16歳の頃に芽生えたのかもしれません。

 バッハの場合は、「伴奏無しの」といっても、それは「without b.c. (通奏低
音 basso continuo)」という意味で、確かに「演奏形態は“独奏”だけれども、
様式としては、他の作品、バッハと同時代のスタイル」で書かれている。
 一方、バルトークは、「独奏バイオリンのための」という意味で、確かに「演
奏形態は“無伴奏”」だけれども、音楽様式は明らかにバッハとは違う。

 ここに「様式」という語を登場させてしまうと、これまた時代様式・演奏様式
・楽器の様式などなどに始まり、違う用語の「形式」その他諸々、概念規定を整
理する必要が生じるのですが、ここでは一切の解説は省き、10歳代後半にそうし
た「様式感(観)」というものの雰囲気の違いに気付いたということ、またそのこ
とを日本語なら同じ「無伴奏」と括ってしまう演奏形態から名付けるスタンスと、
音楽様式の立場から言い分けることができる手段があるということ、もっと大き
く言えば、

・日本語では明確に言い表せない内容が、違う言語だと的確に言い表せる。

ということに気付いた、とでもいいましょうか。この気付きは、「話し言葉と書
き言葉」「漢字を遣う遣わない」に次ぐ、「いったい外国語って何の効能がある
の?」という、大袈裟に言えば個人内で言語を使いこなしていく「第3のノウハ
ウ」に目覚めた「事件」ではなかったかと思います。

 ここで音楽からはちょっと話題が外れますが、第1と第2のノウハウに簡単に
触れておけば、「話し言葉と書き言葉」は、字で伝えれば明快なのに、話し言葉
ではえらく神経を使うような場合。
 例えば、5人一組のバスケット・ボール5チーム分のゼッケンを作るとしまし
ょう。それぞれ1~5番のナンバーの付いた5色のセットを発注する時、

 白生地に黒文字/黄生地に黒文字/赤地に白抜き文字/青地に白字/緑に白

わざとだんだんと簡略して書きましたが、文字でこうして見れば、「布地の色→
文字の色」の順と了解できます。しかしこれを電話で口頭注文する場合にはどう
でしょうか。
 「アオジニシロジ」
と言われても、「ジ」が生地の「地(ジ)」なのか、文字の「字(ジ)」なのか混乱
するでしょう。ちゃんと「生地」「文字」と確認しながら伝えたつもりでも、受
け手が、個人商店で留守番の少し耳の遠いおじいさんだったりした日には、ミス
しない方が奇跡ということになりかねません。
 郵送で、FAXで、つまり、書面で発注した方が確実な例です。

 「漢字を使う遣わない」は、文字で表すにしても、「ここでこそ漢字を使うべ
き」という場面のこと。
 「彼女は受付にいるよね。」と書いた場合、人材の配置や適材適所という意味
で「要る」のか、勤務シフトの関係で今の時間帯だったら「居る」のかは、会話
であれば前後の脈絡や話者の置かれたシチュエーションで自明であっても、文字
で単に「いる」では今ひとつ理解できず、「要」と「居」を使って(使い分けて)
こそ相手に正確かつ明確に伝わるはずです。
 逆にわざとひらがなにひらく場合もありますが(「理念をつくる」のように、
「造る」ではないし「作る」でもなく、さりとて「創る」でいいのかと言えば、
もう少し広範な、根本的な、原理的な意味で使いたい、などというときには、す
べてを包含するというようなニュアンスで「つくる」と敢えてひらがな表記にす
るような例)、漢字をこそ使うべき、という場合もあるわけです。

 そこに、文化的背景の違う欧米の表記が加わる。
 エルガーの小品に「Chanson de Matin (シャンソン・ド・マタン)」という曲
がありますが、これを「朝の歌」と訳してよいものかどうか? イギリス人のエ
ルガーがフランス語で付けたタイトルは、自国イギリスにはないフランス文化の
香りを漂わせる意図なり憧れなりがあっての営みでは? だから、その曲想をど
ういう雰囲気で演奏するかといえば、フランス的に、という解釈。ではフランス
的ってなあに? 国民性は? 歴史は? 音楽様式は? と理解は広がり深まり
ます。

 教育としての外国語は、コミュニケーションの手段だとか国際感覚の育成だと
かを話題にしがちですが、もっと大きくというか根本には、「文化」や「歴史」
というものを入り口でも構わないから感じ取り、素養のかけらとして身に付ける
ことがあると思います。
 中国では、空飛ぶ燕と地上の馬を組み合わせ、燕の上に馬が乗っている彫像で
「この世の最速のもの」を表すのに、西洋は馬に翼を生やらかしてペガサスをつ
くる。そういや、手術・移植の対症療法と、漢方の対応ではまったく違うわね。
 そんなこんなの文化の違いを認め、自分の人生やアイデンティティの確立に生
かしていく……。

 流暢に話すことはできなくても、異文化の肝を正しく汲み取り、稚拙ながらも
真摯に向き合うことができるなら、ちょっと大袈裟な言い方かもしれないけれど、
それは人生を豊かにする薀蓄なのだといえないでしょうか。

 Unaccompaniment と Solo の表記の違いは、15歳の私にそんな思いを植え付け
たように思います。

 なお、この記事は、ブログを見てメールを下さった H.I. さんに捧げます。
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